彼は今日初めて店の2階に行き、自分にはずいぶんと不似合いで場違いな場所だとわかった。
一人で苦笑する彼の頬には今し方つけられたルージュがくっきりと残っている。社交辞令的なものだったのだから拭き取ればいいのに、彼はそれすら忘れて階段を降りてしまった。慣れない好意に、少し動揺したのだろう。
その内実を、彼女が理解出来れば良いのだが。
対して1階には2階とは違う垢抜けた陽気さがある。階段を下りきると、人の話声や笑声、中には怒鳴り声をあげている者もいる。耳に親しんだ賑やかな音と酒の匂いに彼はどことなくほっとした。
彼が先ほどまで座っていたカウンター席を見ると、彼女がその隣に座っていた。今にも椅子から尻がずり落ちそうな座り方をしている。だがあれが彼女のスタイルだ。
彼女はグラスを片手に、バオと談笑している。
グラスの中身は彼が注文しておいたバカルディだ。最初から二人で飲むつもりでいたのだから、今更気にすることでも、気にするような仲でもない。
「レヴィ」
声で彼だとわかった彼女はまだ少し距離があるのにわざわざ声をあげて話しかけてきた。
「なあ、ロック聞いたかよ――」
ここまでは機嫌が良さそうだった。しかし彼の顔をみた途端に目つきが変わった。
彼を非難するような視線を向けている。もちろん浴びせられている彼には思い当たる節がない。
「な、なんだよ?」
「ずいぶんとお楽しみだったみてェだな」
「え?」
お楽しみだったって、何が?
「お前、今までどこに居た?」
「どこって……2階だけど?」
「鏡を見るのも忘れるほどイかされたのかって聞いてンだよ、バァーカ」
彼女が掲げているグラスに映る自分の頬を見ると、そこには先ほどの“お礼”がはっきり唇の形で写っていた。
彼は小さく声を上げて、恥ずかしそうに頬を拭った。
そして静かに、恐る恐る彼女の隣に座った。
「……違うからな」
何故か額に冷汗が流れ始めていた。
彼女に誤解されている事に焦りを感じてることが不思議でならなかったが、この誤解を解かないことには彼自身もすっきりしないのは確かだった。
「別に聞きたくねェよ、お前の話なんか」
「レヴィ、お前が想像しているような事は一切ない。俺はただ――」
「なんであたしに言う必要があンだよ!?」
「え? あ、いや、まったくその通りなんだけどさ」
「だったら黙って飲みやがれこのヤリチン!!」
「だから! 違うって言ってるだろ!!」
「うっせえ! あたしに言うなっつってンだろ!!」
「怒るな! 俺は忘れ物を届けただけだ!!」
「……忘れ物?」
怒り心頭で殴りかからん勢いがぴたりと止んだ。彼女は間の抜けた声ときょとんとした顔で彼に問い返す。
彼は興奮して乱れた呼吸のまま大きく頷いた。
真相を知っていたバオはずっと新聞紙で顔を隠していたが、とうとう堪えられなくなり声を出して笑った。
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