ダラダラと数時間、印象に残るような会話もなく


 カレンダーを見て、彼は思わず声が出た。
「あ」
 しかしこれと言って驚いた様子ではなく、何かちょっとした事を思い出したようなつぶやきでしかなかった。
「なんだよ?」
 ソファにだらしなく横になっていた彼女が、何事もなかったように向かえ側のソファに腰をかけた彼に問いかける。
 彼はすぐには返事を返さず、持って来た冷たいビールの1本を彼女に差し出すようにテーブルの上に置いた。
「何が?」
 彼は言いながら、ビールを開ける。
 心地良い泡の音が、彼女の乾いた喉を刺激したが、起き上がるとすぐに彼の目を見て問い返した。
「聞いんのはこっちだぜ、ロック。なんか思い出したような言い草してたじゃねーか」
「あぁ、確かに思い出したよ。でも話すほどのことじゃない」
「……あっそ」
 詮索屋は嫌われる、前に自分がそう言った手前、彼女はそれ以上聞くことが出来なかった。
 仕方なく目の前のビールを乱暴に開け、ぐいっと喉に流し込む。
 その仕草が、彼にはいじけているように見えた。
「気になるかい?」
「別に。あたしにゃ関係ねぇんだろ? だったらこの話はお終いだ」
「それは残念だ」
 彼女のさっぱりとした回答に、彼はわざとらしく肩をすくめた。
 長い時間一緒に過ごしていれば、聞くまでもなく、彼女がこう返えしてくるのはわかりきっていた。
 エアコンは入ってるのに、やけに暑く感じる。
 俺はロアナプラの熱帯夜に当てられて、気まぐれを起こしているのだろうか?
 外はすでに暗く、事務所には自分達しかいない。
 そう、今の状況だって、よくよく考えばおかしいものなのだ。
 いつものこの時間帯なら、もう互いに自分の下宿に戻っているはずだ。
 けれど、何故かイエローフラッグに行くこともせず、ダラダラと数時間、印象に残るような会話もなく二人で過ごしている。
 つまらないと感じることはなかった。
 彼女は自分にとって不思議な存在になっていると、彼は感じていた。
「話すほどのことじゃねぇって、今てめぇが言ったんだろーが。今度は聞いて欲しいだと? あたしを知ったかぶりクソ神父と勘違してんなら、海でも山でも越えて本場に行きな」
「懺悔出来るくらい悪いことしてればいいんだけどね、もう懺悔していい身分じゃないさ…そうじゃなくって、思い出したのは誕生日だよ」
「誕生日だぁ? 誰の?」
「俺の」
 どんな顔をするか興味があったが、彼はその瞬間に意識的に彼女から視線を逸らした。
 本当に大した事ないどうでもいい話だと、今更ながらに自分の子供じみた言動が、恥ずかしくなったのだ。
「こっちに来てからはすっかり忘れてたよ。去年だって2日経ってから思い出したくらいだ」
 そうして彼はやっと彼女の顔を見た。
 彼女はいつも通りにビールを飲み続けている。
 沸いた頭を冷やせ、そう言われているようだった。
「くだらない内容で悪かったな」
 溜息混じりに言うと、意外な言葉が返された。
「いつだよ?」
「ん? いや、今日だけど」
「で? 何が欲しいんだ。聞いて欲しかったってことは、何か欲しいモンがあったからだろ?」
「欲しいものなんてないよ」
「面倒くせぇヤローだな、はっきり言え。何だ? 酒か? それともアロハか?」
「酒はいいけど、アロハは嫌だ」
「てめ――」
 いつからだったか、こうやって彼女を怒らせても、自分ならば大丈夫だという確信が持てるようになった。
 そして湧き上がる感情は、小さな優越感と――独占欲。
「あると言えば、ひとつだけある」
 ――あぁ、そうか、俺はこれが言いたかったのかもしれない。
 彼はこのある種の思いつきが、自分の本心だった事に気づき、内心驚いた。熱帯夜の所為ではない。なにしろ、どんなにロアナプラの夜がどんなに暑くても、エアコンがあるこの部屋では、熱さでおかしくなる事などない。

 気まぐれなんかじゃない。

「だからそれを聞いてやってんだ」
 怒ったような口調だが、彼女の瞳には怒りの色など微塵もない。
 あるとすれば、彼に対する純粋な興味だけ。
 今の彼には、それだけで充分だった。
「……いや、今はまだ言わない方が良さそうだ。忘れてくれ。来年までには言えるよう努力するよ」
 彼は彼女に照れたように笑い返すと、静かに事務所を出た。
 静まり返った空気の中、酷く珍しい彼女の溜息だけが部屋に響いていた。