側に居る事に、理由は必要か?


 熱でもあるんじゃないかと彼が彼女の額に手を当ててなかったら、今ごろ酔ったように店先でフラついていただろう。
 部屋まで連れてくる間、彼女は何度も彼の勘違いだと言い張っていた。自分が風邪を引いたとは考えていなかったようだ。確かに、彼女が熱を出したなんてダッチに話せば、“そいつはがっかりなブラックジョークだ”などと言われるだろう。
 しかし彼には彼女がこうなってしまった原因に、思い当たる節がある。
 それは、日本とロアナプラの気温差だ。

 思い返してみれば、今日一日、彼女はいつもの身体的機敏さに欠けていたような気もする。事務所のソファにだらりと横になるのはいつもの事だったが、起き上がるのがだるそうだった。しかし、到って他に具合が悪そうな素振りがなかったため、特に体調を伺ったりはしなかった。
 訊いても素っ気無い返事が返ってくるだけだっただろう。そう考えれば結果は同じだったよなと、彼は夜になるまで聞かなかった自分を責める事を辞めた。
 彼女の自室のドアを開け、すぐにベッドへ向かった。貸していた肩をゆっくりと下ろし、横になるように促す。彼女は黙って従い、ベッドに身体を沈ませた。
 適当なタオルを見つけ、水で濡らして彼女の額にそっと乗せると、彼はいつもの柔らかい声で話しかけた。
「具合はどうだい?」
「……」
「しゃべれないほど辛いわけでもないんだろ?」
「ったりめぇだ。こんなモンほっときゃ治るって言ってんだろ。せっかく人がご機嫌に飲んでたってのに、台無しにしやがって……ったく」
「ほっといて治るもんなら俺だってあの場に残りたかったよ。けど、あのまま酒場で飲んでたら間違いなく倒れてた」
「んなヤワじゃねぇよ。もういい。戻りたきゃ一人で戻れ。あたしは居てくれと頼んだ覚えはないぜ?」
 と言いつつ、彼女はぬるくなった額のタオルを彼に渡す。
「はいはい」
 言い合っても仕方ないので、彼は彼女の言い分をさらりと受け流した。
 彼が何気なく足元を見ると、包帯がほどけかかっていた。
 包帯に触れようと手を出しかけたが、触れてはいけないような気がして、手を引っ込めた。
「包帯、もう取れそうか?」
 彼女はもう松葉杖は使用していなかった。普通に歩行していたのを見ていたが、傷口が開くんじゃないかと、少し心配だった。自分の身体の調子にさえ無頓着な彼女なら、ちょっと良くなったからと無茶をする事も十分有り得る話だ。
「あぁ、もう必要ねぇな。取ってくれ」
「本当に治ってるんだろうな……ってやっぱりまだ治りきってないじゃないか」
 傷口は塞がっているが、まだ完全とは言えない状態だった。素人目で見ても、ちょっと激しく動いただけで接合部が開いてしまう可能性が否めない。
「ロック、いつから医者になったんだ? あたしが治ったって言ってんだから、治ってんだよ」
「レヴィ、また杖で歩きたいのか?」
「二度とご免だ。ありゃ邪魔で仕方ねぇし、武器にゃあなるが殴る前に銃で打たれちまうか手前がバランス崩して倒れるかどっちかだ。アホらし。そんな事で死んだらロアナプラの都市伝説になっちまう」
 松葉杖生活が相当気に入らなかったのか、どんよりとした半目で最後には溜息をついてみせた。
「だろ? だったらおとなしく俺の言う事を聞くんだ」
 彼女は何か言いげに彼を睨みつけ舌打ちをしたが、それ以上反論する事はなかった。
 彼は彼女の足に新しい包帯を巻き始めた。
 それが終わると、再び彼女の枕元に近づいた。
 「傷はともかく、今は熱だな」
 言いながら彼は彼女の額の温くなったタオルをはずす。
 また額に手を当てるのかと思えば、その手は彼女の前髪をかきあげる。そして自分の額を近づけようと体ごと彼女に覆いかぶさる体勢になった時――
「わかったよ。わかったからお前もう帰れ。主治医の仕事はここまでだ」
 彼女は仰向けから横向きに体勢を変えた。
 まるで、彼から逃れるように。
(……意識した? ……まさかな、さすがにそれは無いか)
 彼は小さく溜息を吐くと、自嘲的に口元を歪めた。
 少し考え、彼は声のトーンを上げて言った。
「残念だけどまだ帰らないよ。熱を出してる人間、しかも自分の体調に無頓着な人間を放ってはおけないね」
「……看病するとか抜かすんじゃねぇだろうな?」
 彼女は首を回して、背中越しに彼を見た。
「言わないよ。ただ……俺がここに居たいと思ってるだけさ」
 バカにしたように鼻で笑って、彼女は仰向けに戻ると、頭の後ろで両腕を組んだ。
「なんだよ、ホームシックで人恋しいってか? あたしはあんたのママかい、ロック坊や」
 彼女がちゃかした物言いをするのは日常茶飯事で、彼も大抵の事は気に留めない。
 ただ、今日はその“大抵の事”には、どうやら収まらなかったらしい。
 彼女の目を彼はただ真っ直ぐに見ている。
 その瞳は彼女が幾度か見た事のあるものだった。
 こういう時の彼に冗談や誤魔化しは通用しないと、彼女は知っていた。
 時々彼のこのような態度が、彼女の深く押し殺し忘れようとしてきた部分を刺激してくる。事実、何度も自分という存在を根底から揺さぶられていた。
 日本独特の平和な空気に、戸惑ったように。
 同じ生き方が出来るのではと、一瞬でも考えてしまうほどに。
 この刺激が一体なんなのか、彼女にはわからなかった。ただ、彼を手放したくないと思っている自分に、また戸惑い始めているのは確かだった。
「俺がお前の側に居る事に、理由は必要か?」
 彼女は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにその瞳の色を変え、視線を絡み合わせたまま言葉は返さなかった。その色は彼女をよく知らない人間ならば、すぐに逸らしたくなるほど強いものだった。多くの人間が気迫負けしてしまうだろう。
 しかし、彼は違う。
 彼女のこの瞳は、突き詰めれば、戸惑いがそうさせているのではないかと考えていた。
 恐らく、彼女は今までそうして生きてくるしかなかったのだろう。戸惑いを感じさせれば、相手に隙を与えるも同じ。
 自分を守るためには、戦うためには、常に相手以上の強さを誇示しなくてはならない。彼女は弱肉強食の世界で生き抜く以外の感情の表し方が上手くない。器用な部分が多い彼女の、そういった不器用な一面は、いつの間にか彼にとって、愛しいものになっていた。
 長いようで短い沈黙を破ったのは、やはり彼女だった。
 ある種の睨み合いに対して、ふんっと鼻を鳴らし視線を逸らした。きりが無いとか、アホらしいと思っての事だろうが、彼には白旗を示しているように思える。
「薬は持ってる? ないなら買って来るけど」
 何事もなかったように言う彼に、彼女はわざらしく大きな溜息を吐き、こう返すしかなかった。
「勝手にしろ」
 
 彼女はいずれ気づくだろうか。
 彼から受ける、“刺激”の本質に。