イド・アンド・アイデンティティ


 耳障りなテレビのノイズ音が部屋に響いていた。
 外はもう暗い。
 いつから眠っていたのかも思い出せない。
 久々に飲みすぎたせいか重く感じる身体。
「……ちっ」
 誰にでもなく舌打ちをする。
 がしがしと髪をかきながらゆらりと身を起こす。
 うるさいノイズ音を消そうと彼女はベッドから立ち上がる。
 まだはっきりとしない意識の中、テレビのチャンネルの感触を探り当て、適当に回した。
 電源を切るという行為よりも先にイラつかせる音源を消したかった。
 ノイズ音が音声に変わる。まだ放送しているチャンネルが映ったのだ。
 流れてきたのは男女の声。
 映画を放送しているらしい。見たこともない顔の俳優だ。どこかの国の三流映画だろうか。
 数分は経っているのに、男女の長いセリフのやり取りが続いていた。ブラウン管内の男女は互いに愛していると言いながら感情をぶつけあっている。
 彼女はチャンネルのダイヤルに手をかけたまま、ぼんやりと画面を見ていた。
 傍目から見ると棒立ち状態。視線を画面から離すことができないでいる。
 恋愛映画に興味があるのではない。こんなものを観るくらいなら、ハリウッドアクションを観たほうがまだ楽しめた。だから今までは気にすらかけなかった。しかし現在はと言えば、彼女の中である出来事を思い出させる程度にはなっている。

 そう、2週間前の、あの日から――



 この部屋の向こうに果たして彼は居るだろうか?
 ホテルの一室。
 彼が泊まっている部屋のドア前で、彼女はノックしようとした手をピタリと止めた。
 日本に来てから、余計な思いばかりが頭に浮かぶ。
 今日こそ、居ないかもしれない。
 それもいいと思っていた。
 しかし、彼は薄情で無責任な男ではないから、通訳とはいえ仕事の途中で抜け出すなんてことはしないだろう。
 わかってはいたが、常に不安だった。
 声をかけて、返事が返ってこなかったら?
 自分はどういう感情を抱くだろう。
 寂しいだろうか、辛いだろうか。
 想像すらつかない。
 視界に入った自分の手を見て、ノックをするという行為が自分らしくないと気がつく。
 こっちに来てから調子が狂っている。
 彼女はらしくない自分に気づくたび、その実感が増していくのがわかった。
「ロック」
 部屋のドアをゆっくりと開け、彼の名を呼ぶ。
 もしかしたら彼をこう呼ぶのも、今日が最後かもしれない。
「レヴィ、寝たんじゃなかったのか」
 彼は少し彼女の方を見ただけで、また視線を元に戻した。
 酒も飲まずテレビもつけずに、考え込むようにソファに座っていた。
「頭にキすぎて眠れやしねぇよ」
 駐車場でのバラライカとの一件後、ホテルに戻ってからも言い知れない怒りがまだ残っていた。
 あの時彼女は、彼を殺すことも、ましてや殴ることすら出来なかった。
 ただ、どうしようもない怒りだけが込み上げて。
 彼がバラライカの手にかかった時、彼女はかつてないほどの焦りを感じた。彼が殺されると思った瞬間、本能的に銃を構えていた。
 あれは恐怖だったのかもしれない。誰かを失う恐怖。そんなもの、自分は一生感じることなどないと思っていた。
 しかし、何度も引き金を引きそうになった彼女の両手が全てを物語っている。
 自分はこの男を殺されるのが怖かったのだ、と。
「まだ……怒ってる?」
「……ロック、いま殴ってやってもいいんだぜ?」
 不愉快だった。
 彼がではなく、彼を失いたくないと思った自分が。
 殴ることすらできなかった自分が。
 本当は、いまも殴ってやりたかった。反省させたかった。
 けれど、申し訳なさそうな顔を向けてくる彼に、ただ彼女は自嘲的に笑ってみせるのが精一杯で、その手を上げることは出来なかった。
 こんな彼の顔を見てしまっては、殴る気にもなれない。
 我ながら甘くなったと思う。
「冗談さ。けど本気で焦ったのは確かだ。あのままお前がうまいこと切り抜けてなかったら、あたしはあの二人を撃ってたよ」
 彼女はベッドに腰をかけた。静かな部屋に、ベッドの軋む音が響いた。
 少しの沈黙を破ったのは、彼だった。
 彼は一点を見つめたまま、呟くように言った。
「もしくは、俺がバラライカさんに撃たれてた」
「ロック!」
 彼女は立ち上がり、彼の首元を掴んで思い切り自分の顔へ引き寄せた。彼も引っ張り上げられた勢いで立ち上がった。
「いい加減にしやがれ! てめぇだから許してやったって何度言ったらわかるんだ!? そんなにあたしにぶち込まれてぇのか!? つまんねぇこと考えるくらいなら、同じことやらかさねぇようにしっかり頭に刻んどけ!!」
 彼女は鬼気迫る目と声で彼を怒鳴りつけた。
 だが先刻同様、彼の瞳には動揺の色すら見られない。
「ずっと聞こうと思ってた。レヴィ。お前、どうして俺を助けてくれるんだ?」
「なっ、仲間助けて何が悪いってんだ! それとも本気で死にてぇのか!?」
「それだけ?」
 相変わらず彼は穏やかな口調で、切なげに目を細めた。
「他に何があるってんだよ」
 居心地悪そうに彼女は視線を逸らせた。
「でも今回はそれだけじゃない。親に会えなんて言うし……おかしいよ」
「おかしい?」
「そうだ。俺はダッチやベニーの過去なんてほとんど知らない。お前のこともだ。それは過去に何をしていようが今には関係がないからだ。それはレヴィ、お前が言っていたことだ」
「だから……なんだよ」
「それは俺も同じだ」
「どこが同じだ? お前はまだ戻れるじゃねーか」
「それだよ、レヴィ。どうして俺を戻そうとする?」
 心底わからないといった表情で、彼はいつの間にか彼女の手を掴んでいた。彼女の手はもう彼の襟首から離れている。
「あ、あたしは……」 
 これからも一緒に居られるのか、居られないのか。
 結論から言えば、それが知りたいだけだった。
 出来ることなら同じ世界に居たいと思う。銃声の中、何度でも守ってやろう。それだけの価値が彼にはある。少なくとも自分には。
 しかし彼がこの平和な国に戻れば、殺される危険はない。親にだって会えるし、まっとうに生きていける。平和な世界で、いつか家族を作って幸せに――。
 そういった自分には持てない物を、彼は掴んでいけるはず。
 そう考えて、彼に選ぶきっかけを与えてきたつもりだったが、彼に問われて自覚した。
 ――自分に彼と別れる覚悟が、足りないだけだった。
「レヴィ。俺、ここに来てから、ひとつはっきりとわかったことがあるんだ」
 彼は続ける。
「お前となら、俺はいつでもそのままの自分で居られる」
 泣きそうになるほど、優しい声だった。
 彼女は胸の内を悟られないように、彼の手をわざと乱暴に振りほどくと、背を向けた。
 唐突にバラライカの言葉を思い出す。
 ――同じ生き方を望むべきじゃない。
「勘違いだぜ、ロック。故郷に戻って気が緩んでるだけさ」
 緩んでいるのは、彼だけだろうか?
 自分も、そうなのではないのか?
 ――今はこれ以上一緒にいない方がいい。
 何かがそう訴えてきた。
 彼女は逃げるように部屋を出ようとドアに向かって足早に歩き出す。
「違う!」
 彼が反論するように叫んだ。
 彼女は彼の声に耳を傾けることをやめた。
 聞いてはダメだ。聞いてはダメだ。
 そう心の中で繰り返す。
 しかしドアの前まで来て、突然腕を引っ張られた。
 振り返り睨みつける。
「ロック! てめっ――」
「頼むから、聞いてくれ」
 彼の声の響きが耳元に届くと同時に、彼女の息が止まった。
 強く、強く抱きしめられていた。
「……はっ、離せよ」
 うまく息ができないせいか、彼女の声は震えていた。
「本当にそう思ったんだ。
 家族と居るよりお前と居る方が自然に思えた……信じてくれ」
「わ、わかった……わかったから、もう離せ」
 彼の腕の力が強すぎて、苦しかった。
 彼の自分に向けられた真摯な想いが、温もりから直に伝わってくるのがわかった。

 心ごと、締め付けられているようだった。

「ごめんっ」
 我に返った彼は、顔を少し赤くしながらすんなりと彼女を解放した。
「じゃあな」
 彼女は素っ気無く、素早く部屋のドアを閉めて、廊下へ出た。
 数歩廊下を進んで、よろめくように壁側に移動すると、彼女は右の拳を壁に叩きつけた。小指から鈍い痺れが走る。
「あの野郎……」
 悔しかった。
 ふざけるなと一発殴ってやりたかったが、またそれが出来なかった。
 嬉しかったというのも事実だ。認めよう。
 だが同時に、やはりあの男はこっちの世界に居ない方がいいのではないかと考え始め――次の日、彼女は公園で別れを切り出した。



 結局、彼はこっちの世界を選んだが、彼女には大きな問題が残ってしまった。
 時々、こうして思い出してしまうのだ。
 彼の腕の力強さと、熱いくらいの温もりを。
 そして、あの言葉を。
 恋愛映画には興味がない彼女は、やはりチャンネルを回した。
 気晴らしになりそうな番組はやっていなかった。
 仕方ないので映画に戻す。
 彼女はいつしかその音だけを聞きながら、再び眠りについていった。