彼女はいつも不思議に思っていた。
そもそも彼に、女という存在は必要ないのだろうか?
彼がロアナプラに来てから、自分以外の女とどうこうなっている様子はないし、ましてや女を買っている姿も見たことがない。
男だったら誰もがご機嫌になる女の姿を前にしても、ただ顔を赤らめて目を逸すだけ。まるでウブな少年だ。
今までこんな男は、自分の近くにはいなかった。
だから彼女は、彼に興味が沸いた。
彼が女である自分に対して、どんな反応を返してくるのか知りたくなったのだ。
ちょっとからかってやろう。
最初はそんな軽い気持ちでしかなかった。
「レヴィ?」
彼に名前を呼ばれ、彼女はハッと顔を上げた。
いつの間にか自分の部屋の前に着いていた。
車を降りてからずっと、彼の背中を見つめながら、これから自分のしようとしている事をついて考え直していた。
本当にやるのか?
どうせ驚かれて拒まれて、それでオシマイだ。
そこから先なんてありゃしない、分かってるだろ?
「珍しいな」
「何が?」
「上の空みたいだった」
考えごとか?と彼が聞いてくる。
「別に」
「……」
彼は彼女からの言葉を待つように黙っている。
彼女は無言で責められている気分だった。
見透かされているようで居た堪れなくなる。
やっぱりヤメだ。
アホらしい。
試したところで気まずくなるだけだ。
彼女が適当にこの場を流そうと口を開きかけると、それより先に彼が小さくため息ついた。
「何か俺に都合の悪いことを隠してる、だろ? そういう時のお前は決まって俺の顔をまともに見ようとしないからな」
腹立たしかった。
彼はいつも恐ろしいほど図星を当ててくる。
「わかったような口聞いてんじゃねぇぞ」
タバコと酒で焼けた低い声で彼女は彼を睨みつける。
「わかるさ。一年以上も一緒にいるんだから」
悪びれた様子もなく彼は言った。
まるで彼の方が自分の事をよく知っているような口ぶりだった。
考えを読まれるのは、確かに癪に障る。
しかしどういうわけか、彼女はそれが心地良いとも思える。
今も、一言前までは苛立っていたのに、一言後にはなんとも言えない安心感を感じている。
相手が、彼だからだろうか。
最近、胸が詰まるような感覚を覚えることが多くなったのも、やはり彼が原因なのだろうか?
彼女がそんな得体の知れない感情を持て余してることを、彼は知らない。
彼女は時々それがたまらなく悔しかった。
全てをぶつけてしまいたかったが、その術すら持たない彼女の不満はつのるばかり。
そういった不満は時に、ただの悪戯さえもエスカレートさせてしまう。
「いいや、お前は何もわかっちゃいねェ」
彼女は彼の首を片手で絞めるように掴むと、彼の体を壁に押し付けた。
「っ、おい! 何す、んっ――」
彼女は彼の薄い唇に自分の唇を強く押し当てた。
子供が勢いでするようなキスだった。違う点があるとすれば、無理やり舌をねじこんだくらいで、大人のキスとは思えない。
本当は頬に軽くキスをするくらいの予定だった。
彼が顔を赤くして驚く顔も想像できていたのに。
悪戯が本気になってしまい、本気が空回りしていた。
彼からの反応は無い。
残念ながら、このキスの先には何も起こりそうになかった。
事実、彼はただその場で体を固めていた。
これからしばらくの間は、きっと気まずくなるだろう。もしかしたらそう考えるのは自分だけで、彼は普段通りに振る舞ってくるかもしれなかった。
――痛い。
胸の奥がズキズキする。内側から痛みが増してくる。
彼女は虚しくなり、舌を引き抜き唇を離した。
「……レヴィ、」
「ちっ。面白くねぇなぁ〜。この手のジョークも通じねェのか?」
彼女は明るく呆れた口調で彼の言葉を遮ると、彼の肩をポンっと叩く。
「寝ちまえば忘れるさ。ただの味見だ。ごちそーさん」
うまく誤魔化せたと思った。
顔を見られる前にこの場を離れようと、彼女は素早く踵を返す。
と、怒りを含んだ声で彼が手首を強く掴んできた。
「ずるいよ」
「あ?」
彼女が振り返った次の瞬間、人の体が壁にぶつかる鈍い音が、静かな廊下に響いた。
「逃げるな」
射るような彼の真剣な眼差しに、彼女は抵抗するのを忘れた。
先刻とは逆の体勢を取られているというのに。
彼の手によって、彼女の両手首が壁に張り付けられている。
勢い良く壁に押し付けられたせいか、背中が少し苦しかった。
「……っ。ジョークだって言ってんだろ? 今のは許してやる、さっさと手を離しな、ロック」
「断る。それに俺はお前を許しちゃいない。認めるまで離すもんか」
視界は完全に彼によって塞がれていた。両手に力を入れて彼の手を解こうとしたが、かなわない。身長もさほど変わらないのに、近づくとやはり彼女の方が覆い被されてしまう。
「重く考えすぎだぜ。からかっ……っ――」
からかった、仕返しのつもりだろうか。
彼女は両手首をしっかりと拘束されたまま、彼に口を塞がれてしまった。
「……っ……ふっ、……っ……ん、はぁっ」
彼は彼女に息をする暇さえ与えなかった。
深く深く、最奥を求めるように舌を絡めてくる。
さっきは固まるだけで、無反応だったのが別人のようだ。
完全に彼に主導権を握られていた。
しかしそれは彼の余裕からくるものではなかった。
「……はぁ……っ、……ふっ……っ、……っ」
彼は息をするのを忘れるほど、夢中になっていた。
彼女の手首から手を離し、彼女の腰と背中に腕を回す。
その手は彼女の身体をなぞる。
ゆっくりと激しく、昂ぶるらせ、誘いこむ。
その刺激に抵抗できず、彼女の身体から力が抜け落ちた。
膝が身体を支えきれずにガクガクと不安定に上下している。
彼女はずるりと彼の腕からすり抜け落ちそうになったが、寸でのところで彼の腕に力が篭った。
彼はそのまま押し倒すように彼女の身体を背中の壁に再び押し付ける。
もう互いの息と絡み合う舌の音しか聞こえなかった。
「はぁっ……っ、……っ……い……」
彼が何かを言いかけたが、聞き取れるはずもない。
彼女はぼんやりとした頭で、これはハイになる薬より性質が悪いと思っていた。
あまりの気持ちよさに、身を委ねることしかできない。
そんな彼女がやっとの思いで積極的に動きはじめた頃、彼は名残惜しそうにゆっくりと唇を離した。
「……わかってないのは、レヴィの方だよ」
彼女は良い所で中断されてしまった苛立ち任せに彼の肩を乱暴に押し返した。
「だから何だ!? わっかンねェヤローだなぁ!!」
頬が高潮しているためか、いつもの迫力はない。
本当に、心底わからないといった様子だった。
この瞬間の彼女は、間違いなく女だった。
そんな彼女をじっと見つめ、彼は言った。
「あんなのは……あんな冗談は、レヴィらしくない」
この時、彼女は自分の間違いに気がついた。
本当はからかいたかったのではない。
ただ彼と、キスをしてみたかった。
つまりこの悪戯は、初めからすでに失敗だったのだ。
悪戯のつもりでいたが、それは自分の思い込みで、自分の存在を彼に示したかっただけなのだ。
自分を、見て欲しかった。
『女』として。
彼女は自嘲的に鼻で笑うと、彼の肩に額を寄せて、目をつぶった。
「それに、俺は冗談で女とキスなんてしない主義だ」
「オーライ……あたしの負けってことにしといてやる」
フッと彼女が肩を揺らして笑った。
「笑うところじゃないだろ、今のは」
「つくづく不器用なヤローだなぁと思ってよ」
「自分に正直で何が悪いっ」
「好きに言ってろ」
彼女は彼の肩から額を離すと、今度こそ本当に部屋のドアを開け、またなとばかりにパタパタと手を振った。
「負けを認めたのに、またそうやって俺から逃げるのか?」
ピタリと彼女の手が止まった。
「……ヤる気があンなら相手になってやるけどな、後で泣いて謝っても止めてやらねェぞ?」
「今のその言葉、絶対後悔させてやる」
――『悪戯』。
それは思わぬ影響を人に及ぼし、通念では律することができない意外な出来事をひきおこすこと。
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